どう生きるか問われている
2020/05/19
「流人道中記」を読んで
やっと「流人道中記」読み終えました。大変でしたよ、面白すぎて、青山玄蕃に怒ったり泣いたり夢中になって。
上巻は面白くて、あっという間に読み進めました。青山玄蕃はカウンセラーだなと思いました。流人として旅をしながら、行く先々で出会った人の話を聞き、それぞれの行く末を見つけて納得させる。大泥棒は捕まって磔を覚悟させ、その泥棒の賞金首を稼ごうとした侍や幼馴染の女性を救いだし、いきていけるようにする。
そのうち、こんなに人格者である青山玄蕃がなぜ流人とならねばならないのか、悲しくなって読み進めることが辛くなりました。
最も興味深かったのは、仇討の侍とその敵(かたき)とされる侍と出会った話です。武士の世では仇討は美談とされるが、それはうまく相手と出会い打ち取った時の話で、顔も名前もわからずあてもなく何年も探し回る人と、一時は逃げたけれども、やがて敵として討たれてもいいなと思えるようになった人と。
青山玄蕃は「生きてこそ、本当の武士といえる」と説いているのではないか。家の格や個人的な体裁や世間体に拘って死んではいけない、恥と知りながらも、辛くても悲しくても生きるべきだと説いている。
青山玄蕃は嵌められたのだ。読んでいる途中、なぜ申し開きをしないのか、大身の旗本なら相談できる人も知っていたのだろうに。嵌めた相手を憎んでいるが、その元となる思想や考え方が理解できるだけに、ばかばかしくなったのかもしれない。幼いころは町人として育ち、武家に迎え入れられてから厳しい稽古や学問に修養した青山玄蕃だからこそ、長い武家社会で形骸となった家格や思い込みに気が付いたのだろう。
武家出身の幼い少年が髪結いの徒弟として修行している話が出てきた。青山玄蕃は自分の幼いころや、置いてきた息子のことを考えていたのかもしれない。自分の才覚と技術をもって腕一本で生きていきたかっただろうなと思った。